「普通である」ことの幸せ
「普通でない」は、人生のスパイス
最近は無くなりましたが、数年前は寝すぎてしまったり、大きなイベントの後ついダラダラしてしまうと、ガクッと体調を崩してしまう・・・ということがありました。
偏頭痛や腹痛、体に痛みがあるとそれだけで一日が憂鬱で、エネルギーダウンしてしまうのがわかります。だからこそ、治った時には「ああ~、痛みがないって、なんて幸せなんだろう」「普通って、普通ではないんだ」と痛切に感じます。
特に刺激がなくても、望んでいる高みに至らなくても、夢や目標がなくても、それでも「普通に」毎日を生きていけるって、本当に幸せなこと。
時々、体の痛みも、何か問題があって生ずる心の痛みも悲しみも、人生のスパイスのようなものなのかなと。何もない普通がいかに幸せであるかを知らせるため、それを私たちに思い出させるために、対極を経験しているのかもしれません。
置かれた場所で咲くということ
しかし人は、喉元過ぎれば熱さ忘れるで、普通になった時に、「つまらない、面白くない、刺激がない、誰々さんのように活躍したい・・・」など、いろんな欲望が出て(欲望自体は悪いことではありませんが)、日々の普通に感謝するのを忘れてしまいがち。
今生、何もない普通のありふれた人生を送る、というシナリオを作ってきた人もいます。普通なりに、そこから喜びを見出したり、感謝のいわれを見つけたり、普通なりの幸せに気付きながら生きていくのも、とても素晴らしいことです。
渡辺和子さんの著書「置かれた場所で咲きなさい」。まさに本のタイトル通り、人は置かれた場所にいて、誰と闘うわけでもない自分のステージ上で演劇しながら生きています。誰かのステージに立つわけでもなく、そして、誰かもまた、あなたのステージの主役になることもできず、結局置かれた場所で、人生を送るのです。
幸せに感謝しよう
今、私はもしかしたら皆さんにとっては普通じゃない立場にあるかもしれません。ですが、それでも言えることは、「普通は幸せである」、ということ。それは、普通の時も、十分幸せを感じてこれたから。
普通であったその頃は、お金が今のようにありませんでした。知名度もありませんでしたし、好きなものを気にせずに買えたわけではありません。今は、お金もあり、まだまだではありますがその時よりは知名度もあり、愛する人々にも囲まれています。でも、「幸せ」に優劣はなく、どちらの場合も幸せです。
つまり、どんな立ち位置でも、どんなステージでも、置かれた場所での幸せを見つけることができます。
何もないという幸せ。
痛みがないという幸せ。
争いがないという幸せ。
これらの幸せは、時々起きる、問題、悲しみ、痛み、苦しみのおかげでもあるのです。ですから、困難にもしっかり向き合って、乗り越えて、何もない状態の幸せに戻った時に、感謝を忘れぬようにしたいものです。
嫌なことも、ありがたい
私は、幸せのハードルが本当に低くて、夕食時、炊き立てのご飯と、一汁三菜が食べられる時、「うわ〜!!!今日は贅沢、豪華!」と声に出してしまいます。そして四方八方に、感謝の祈りをしてからいただきます。
午後の時間が空いている時、ソファに深く腰かけ、足元にはマイケルとハナ。お気に入りの珈琲カップで、魂を込めて淹れた珈琲を飲む時、何とも言えない幸福感に包まれます。時々、幸福感に浸りすぎて、涙で目が滲むこともあります。
その時、頭の中を駆け巡るのは、私を支えてくれる人々。発信側の立場ですと、やはりバッシングなども受け、痛みを感じる時があります。だからこそ、私を支えてくれる人々の愛やあたたかさが身に沁みて、涙が出るほど感動します。
嫌な出来事があれば、ブログでわめき散らしたり、吐き出すかのように書くこともできます。しかし、そんなことをしたいと思えないのは、やはり、その対極にある人々や幸せがありがたいと思えるから。そう思うと、嫌な出来事さえも、後にはありがたいことに変わるのです。
幸せを祈って
さあ、今年ももう6月。まだまだ多忙を極めるわけですが、支えて下さる人々に感謝して、ただ粛々と、淡々と、置かれた場所でやることをやってまいります。
最後に、皆さんに質問です。
あなたにとっての普通の幸せとはなんでしょうか?
あなたにとっての、置かれた場所とはどこでしょうか?
そこで咲くとは何を意味しますか?
普通でも幸せ。いや、普通が幸せであったりする。
あなたの「普通の幸せ」が、これからもずっと続くように、祈っています。