他人に対して寛容になる
他人へのジャッジで生まれるのは・・・
ついつい私たちは、見える部分だけで人を判断したり、ジャッジしたりしています。
ジャッジに良し悪しはありませんが、特定の個人に向けてのジャッジは、時に人を傷つけ、そのジャッジの背後にある精神は、怒りや憎しみと言ったものが多いので、その人からも負のエネルギーが放たれています。
それは、そのエネルギーに準じたものを受け取ることになります。つまり、ジャッジされる方と、するほうの両方から負のエネルギーを発するわけですから、とても重苦しい状態です。
何かの啓蒙活動をしたい場合は、一個人に向かって非難するより、世の中に発信すればいいでしょう。
そして「根絶してやる」の意識よりは、それが改善された時のよい状態にフォーカスして、良き未来を発信したほうが、エネルギーは軽く、そして人々もチェンジしやすいものです。
他人に言う前に自分が見えていますか?
若い時から愛読している聖書に、人間関係のことで気に入っている言葉があります。人を裁くことについての聖書のたとえ話です。
マタイの中に記されているイエスの教え、山上の垂訓というのがあります。
おおまかに説明しますと、「他人の目の中にある藁(ワラ)を『とらせてください』と言っている人の目の中には、垂木のような大きな木が目の中に入っている」という聖句です。
藁と垂木は、人の欠点を表しています。他人の小さな欠点が見える人は、自分には垂木のような大きな欠点がある、ということです。
つまり、他人の欠点を正そうとするよりも、自分に注意するように、との教えです。もちろん、好みや価値観の違いはありますから、あれは嫌だ、これも嫌いだ、と思うことは当然あります。
しかし、いちいち、個人に向かって、あなたの目の中にある藁(欠点や非難したい点)を、とらせてください(やめてください、直してください)、というのは、私個人はされるのも嫌ですし、することもありません。
大抵は言う側の人、そのような人は、いつも他人を厳しい目でチェックをし、他人を裁き続けます。自分のことは思いっきり棚に上げて・・・です。
自分のことがちゃんと見えている人は、自分の欠点や落ち度も知っていますから、他人に対しても寛容です。自分もできてはいないのに、他人様に何かを言える立場ではないことをわきまえているからです。
自分のことを見えていない人は、自分の欠点も落ち度も見ない分、意識は他人に向かい、他人に向かって非難し、指摘したり非難したりしつづけます。
「すべて出来ている」と思ってしまう、自己肯定も度が過ぎると、人間関係に支障をきたすものです。
他の人を裁いてはいけません~聖書の言葉より~
自分では見えない盲点のことを心理学用語で、スコトーマ(心理的盲点)と言いますが、これがある人は、次のステージへ行けません。
違った視点がない、ということは、同じことをずっと続けます、それは、同じ結果しか得ない、ということ。
他人の落ち度ばかり見える人は、自分の落ち度が見えない傾向がある、ということを覚えておけば、自ずと自分とも向き合えます。
聖書の言葉の中には、このような言葉もあります。
「他の人を裁いてはいけません。そうすればあなた方も裁かれません。人を裁くときにあなた方が使う基準が、あなた方が裁かれる基準なのです。」
簡単に言いますと「あなたがいつも人を裁いていると、人も同じように扱われますよ。だから人を裁いてはいけませんよ」ということです。
ただ、人の行動によって不快になったり、頭にきたりすることもありますね。それは事実であって、しょうがないことです。しかし、出来事に対して、自分がその感情を選んでいる、ということも忘れないようにしましょう。
「あの人が私を不快にしている」
「あの人の言動が私を苛立たせる」
「あの人の行動でみんながイライラしている」
「あの人、あの人、あの人・・・」という風に自分のイライラを他の人のせいにすることを「他責」と言います。
「あの人は人を不快にさせる行動をしている。でも不快に思っている(感情を選んでいる)のは、自分だな」、と人生の責任を自分に向けることを「自責」と言います。
違いに関して寛容になれるとき、自分の心の中でも真の平安を味わうことができ、そして他人との関係ももっとよくなっていくことでしょう。
寛容になると、あなたが生きやすくなる
最後に一つ、誤解してほしくないのは、なんでも寛容になればいい、ということではありません。
例えば、セクハラなど明らかに犯罪なことをされていて、大人な対応をするとか、この場の雰囲気を壊したくないからとか、そんなことで泣き寝入りするのとは、違います。
泣き寝入りしたその経験が、トラウマになってしまうことだってあります。現実的な対処が必要なときは、勇気を持って対応しましょう。
いかがでしたでしょうか。人に対して寛容になれますと、イライラすることが少なくなります。
寛容になる、というのは、結果的にあなた自身が生きやすくなるための術なのです。