基本中のキ「ありがとう」と「ごめんなさい」
今後の復興支援に関して
記事に入る前に少しだけ、今回の能登半島地震、そして復興支援に関して思うところを書きます。詳細はメインブログにも書いています。
復興・できる人が、できる限り、できることをする 継続的に・・・
できる人が、できる限り、できることをする。そこに無理は禁物であり、自分の心が動かされたとおりに自己決定で援助することをお勧めいたします。
誰かに強要されたり、命令されたり、アドバイスされたからより、自発的なものが良いと思います。
悲しいことですが、東日本大震災の時も、一部の心無い人によって義援金を狙った詐欺が起こっていました。くれぐれも寄付や義援金などをおくる際は、信頼できる機関かちゃんと調べて行動してくださいね。
では、今日の記事。人との関わりの中で基本のキと言える「ありがとう」と「ごめんなさい」について書きたいと思います。
迷惑をかけたら「ごめんなさい」
基本的に私は、謝れない人間と、感謝のない人間を信頼しません。
もちろん、何か失敗や間違いをした時に、かなり落ち込んでしまうくらいなら、その事象によい意味付けをして、それは必然の出来事だった、と思ったほうが心の平安を保てるものだと思います。
それはどんなことがあっても、人生の中での、自分の学びになる「必然」と捉えたほうが、また前を向いて歩みやすくなるから。
しかし、失敗や間違いで他の人に迷惑をかけてしまったり、傷つけたり、問題が大きくなってしまったりした時は、それは必然だと思ったとしても、心の中にだけとどめておいて、まずは相手に心からの謝罪をすることや、反省が必要。
必然性を説いている法則や、宇宙やらスピリチュアルもいいけれど、ここは三次元の世界。他人様に迷惑をかけたら、謝ることを学びに地球に来ているわけです。
たとえばですが、約束していた時間に遅れたら、待たされた人が「それも必然なんだろうね」とか「待たされてちょうどよかった」と言ってくれることがあるとしても、自分で言うことではないですね。
そういう人、嘘みたいだけどほんといたりします。「自分が遅れたのは必然」とか言い出す人が。
そういう時は、心の中で思って、自分では「必然の出来事」とは言わないことです。相手の時間を奪ってしまったのなら、当然「ごめんなさい」です。
遅れた理由は、交通渋滞が悪いわけでも、出掛けに電話が来てしまったことが悪いわけでもなく、そういうことが起こりうることを予測しないで時間通りにたどり着かなかった自分の責任なのです。
迷惑かけたら、「ごめんなさい」。それはたとえ、身近な家族であっても・・・と言うよりも身近な家族こそ、謝れる謙虚さを持ち合わせたいものです。
世の中には、勝手な勘違いで、人様を悪者にし、そして攻撃し、自分の勘違いだった、とわかってもしらを切り、謝らずに、何事もなかったかのように逃げる人もいます。
逃げる程度ならまだしも、自分が悪いと思っていても、保身のために、相手を悪者にして、逃げる餓鬼のような人間もいます。
その人びとの刈り取るものは、大きな負ですが、それが自分が原因であるとは知りません。因果応報は原因と結果の法則です。
してもらったら「ありがとう」
そして、「ありがとう」も同じ。サービスを提供してくれる人、お店はお金をもらっているんだから、感謝は必要ない、と思っている人が世の中にはいますが、しかしそれでも、自分のために「ありがとう」です。
なぜなら、ありがとうは、言えば言うほど気分が良くなる魔法の言葉でもあるからです。周波数が高い言葉なのでしょうね。たとえ心がこもっていなくても、本当に気持ちが良くなります。
皆さんは1日に、何回くらい「ありがとう」を言う機会がありますでしょうか?
家族がいる方は多いですよね。小さくてもしてもらったことに「ありがとう」です。子供はきっと親がいつも感謝をする姿を見て育つでしょうから、自身も大人になって他人様に感謝できる人間になるでしょう。
お店で買い物した時も、カフェでコーヒーを持ってきてもらった時も、会社で、何かしてもらった時も、飲み屋でお酒を持ってきてもらった時も、宅急便配達員が荷物を持ってきてくれた時も・・・
そうやって数えたら、1日に何回も言う機会があります。心がこもっていたらもっと気分は良くなりますが、なかなか心まで込められなくても大丈夫。
回数が多くなれば多くなるほど、気分が良くなっていきますから。言葉の波動とはそういうものです。
相手のため、そして自分のために
自分の体と心に影響があります。声や言葉は声帯を振るわせて発せられるもの、すると、体に言葉の周波数が振動します。「ありがとう」はあなたを気分良くさせ、「ごめんなさい」は自らを省みる謙虚さとなります。
素直に「ありがとう」と「ごめんなさい」を言われた方も、気分よく、心穏やかに過ごすことができるでしょう。
「ごめんなさい」も「ありがとう」も、相手のためでもあるのですが、結局自分のためにもなるのです。