ねたんでもいいよ~負の感情を嫌わない~
ねたみが教えてくれるもの
「ねたみは骨の腐れ」という聖書の言葉があります。確かにねたみの気持ちは、体を蝕みますし、不快感もあります。人をねたむ気持ちは醜い感情だと思い込んでいる人もいます。
そして、自分の中でねやみや負の感情に直面した時に、「こんな自分はダメだ」と自分を責めてしまう。
今日は、その思考を取っ払っていただきたいと思います。結論から言いますと、ねたんでもいいですし、ねたみは悪いだけではありません。
ちゃんと向き合えば、あなたの深層心理の中から宝物のような価値観や、信念が掘り起こされる可能性があります。
しかし、大抵の場合は、向き合うことをせず、一生誰かを批判したり、文句を言ったり、悪口を言ったりして終わる人がほとんどでしょう。逆に、そんな自分に途中で飽きて、変わる人もいるのです。
比べてしまうよ人間だもの
まず、人をねたみはじめると、不快感が襲います。大抵の場合は、欲しいのだけど自分にないものを相手が持っていたりすると、その感情は起きます。物質的なことだけではなく、地位や名声、名誉などもそうです。
そして、ねたんでしまった途端、自分では気付かない内に、負けを感じてしまっていることになります。本当は勝ち負けなんてないのですが、どこかで人は自分と他人を比べてしまっているものです。
もし、その人の持っているものに、自分は何も感じないなら別に競ってもいないし、比べてもいない、ということ。しかし、気になって気になって、何か心がザワめき、不快感があるなら、自分の中に「何か?」があるかもしれません。
自分でそれがねたみと気付くかもしれないですし、逆に、前向きに捉えて「気付き」と捉えるかもしれません。
どちらかと言えば、ねたみなどが無いほうが、精神衛生上良いというのは、誰もが分かっています。問題は、どうしたらねたまなくなるのか?ということ。さぁ、どうしたらいいと思いますか?
ねたんでもいいんだよ
ねたまなくなる方法。それは、まず「ねたんでもいい」と許可をすることです。
人は、自分はダメだと思う人がいる一方で、自分の中にドロドロした感情があることを認めたくない人も多いですよね。 そして、それを隠すように、逆に自分の凄さをアピールしたり、幸せなふりをし続けてしまう。
「ねたんでしまう、でも、ねたんじゃいけない、でも何かモヤモヤして苦しい・・・」拒否するほど、感情は行き場を失い暴れてしまいます。これでは疲れてしまいます。
「ねたんではダメだ」は、世間一般のセオリーかもしれませんが、セオリー通りで抜け出せないのなら、その逆をやってみるのです。
どんな自分にも「OK」と許可ができた時に、心が解放されます。そして、そのあなたの一部であるねたみの感情は、居場所を与えられ、暴れ出さなくなります。
例えば、周りで起業した女性たちや、同業者と自分を比べる、ということをする人が多いかもしれません。
その人とのSNS上の交友では「おめでとう!」や「すごいね」「かわいい」「がんばって」と、表面的には書くことがあったとしても、どこかで胸がチクチクする、がっかりする、なんだか苦しい・・・なんてことがあったとします。
理由を掘り下げた時に、「あ、私うらやましいんだ、妬んでいるんだ」ということが、自分でわかれば、その負の感情は小さくなるか、それを認めたあとは、消えていきます。
この手法は、フロイトの精神分析の手法の応用。無意識の意識化です。
無意識に思っていることを顕在化、意識化、言語化して自分でそれを認めることにより、その力が薄れていく、というもの。ねたみの感情だけではなく、ありとあらゆるネガティブな感情にも当てはまります。
どの感情もあなた自身の大切な一部
ネガティブな感情の一つである、ねたみ。この感情の先にあるものは、憧れです。あなたの目標でもあり、そうなりたいという希望でもあります。
もし、ねたみゆえに意地悪したり、悪口言い続けていたなら、早く昇華させて次へいきましょう。悪口も、一時的に発散、昇華の手段として言うことがポイントです。
だれもが清い心を持った聖人君子のような存在ではありません。すべての感情は、すべて必要だからある感情です。大切に受け止めた時、それらはもう負の感情とは呼びません。
なぜなら、どの感情もあなた自身の大切な一部であるからです。
自分の中にあったねたみや負の感情を見つけたら、「私にもそういうところがあるのか!あるよね〜」と、客観的に眺めてみましょう。
いいじゃないですか、私たちは人間なのですから。人間臭さって、案外いいものですよ。喜怒哀楽を感じられるからこそ、人生はおもしろいのですから。