人生の使命とは?
使命とは与えられるものなのか?
今日の記事は「使命」について。少し自論も含んでいますが、みなさんの考える参考になれば、と思います。
人は、生まれたからには何かしらの使命が課されている、という教えがありますが、天や神様から、自分に与えられた特別な使命というものは、果たして存在するのでしょうか?
神ほどの存在のお方が、人間にそのような何かミッションを与えたりはしません。
そもそも、人生の使命なんてものは「ない」と思っています。大いなる神様が、人間一人一人にミッションなんて与えない、というのが自論です。
実際はどうかは知りませんが、「使命は自分で決めるもの」だと私は思っています。
自分がそういう使命を神様から課されていると思い込んでいる人に関しては、それはそれでいい、とも思います。
自分の意味付けで心地よく生きれたら、とてもいいことだからです。
優劣はなく皆同じ存在
しかし、「だから自分はこういう生き方をしなければならない」と思い込んで、息苦しい人生を送っているのなら、それは使命でもなんでもありません。
もし、自分がそのような存在で、「私はこうあるべき」とか「使命を授かっているので」などのように声高らかに言っている人がいたとしたら、それは選民意識です。
自分が他の人と比べて特別な存在であると思っていますと、歪んだ自意識過剰になり、他の人を見下したり、自分が他者と比べて優れた存在であると思い、差別してしまう危険性があります。
もし、自分のことを本気でそう思っているとしたら、ひっそり心の中で思っておくか、本当に神が与えられたのなら、神がそれを公言するので、自分では言わなくてもいいです。
はっきり言えば、何かを成し遂げた人もそうではない人も、優劣も上下もまったくなく、知名度ではかられるわけでもなく、収入ではかられるわけでもなく、皆同じ存在なのです。
では、使命とは一体何なのでしょうか?
自分がしたいことが使命
使命や天命があるとしたら、あなたが「やりたい」と思っていること、夢や目標、それらを人生の中で果たすこと。そして、自分らしく生きること。
これは特別に誰かに与えられた使命ではなく、万人に与えられたもので、その中で人は、大なり小なり学んだり、教訓を得て成長して、その成長を楽しむものです。
「神様から選ばれし者」という表現を使う人もいます。他人の誰かをそう思うのはいいですが、もし自分で自分をそのように思っているなら、気を付けた方がいいでしょう。
神が人に興味を持つとしたら、その人が何かに挑戦し、歓びを持って自分らしく生き抜くこと。
悩みや苦しみが悪いわけでもなく、それらに直面しても、自分なりの解決をし、乗り越えて、そしてまた人生を捨てずに諦めずに歩む姿勢を楽しんでいます。
子供を持つことが使命の人もいれば、夢を形にするために、結婚をせずして仕事に生きることが使命の人もいます。
誰かのために身を差し出す人もいれば、自分の人生を謳歌する人もいます。起業して自分の分を果たす人もいれば、会社勤めする人もいます。
芸術で表現することが使命の人もいれば、歌で人々に勇気を与えることが使命の人もいます。
一生懸命仕事をして人々の夢を叶えるのをお手伝いするのが使命の人もいますし、主婦として夫を支え、家族を支える人もいます。
使命・天命というのは神様から与えられたことではなく、自分がしたい、と思ったことなのです。
本当は何をしたい?
と言っても、未だに自分の使命を生きていない人もいます。
他人の目を気にして、自分は生きられない。誰かにどう思われるのか?どう見られるのか?嫌われないか?と思いながら生きていますと、居心地が悪いものです。
本当は、やりたいことがあるのにそれをやっていないのだから、生き方が不自然です。
なので、早くやりたいことを見つけて、いえ、思い出してそれをやって、進むことこそが、あなたの人生を思う存分生きていることになります。
使命は神様から与えられたことではなく、自分でしたい、と思ったことであるなら、あなた自身が決めた人生の使命とは?本当は何をしたいのでしょうか?
それを決めることは、あなたが今後どのように生きていくかの指針になり、「どう生きたいか?どう生きていくか」などの、人生のアウトラインを描くことになるのです。
なければ目の前のことに魂を込めてみよう
「やりたいことが見つからない」という人は、無理して探す必要もなく、ただ目の前にあること、やるべきことに魂を込めてみましょう。
それらを一生懸命やることにより、ふとした瞬間「私のやりたいことってこれかも?」とか、反対に「これは心底やりたくない」とわかり、その逆がやりたいことである、ということに気付くこともあります。
心を穏やかに持ち、自分の快適と心地よさを選んでいると、あなたの直感が、自分の使命を見つけてくれます。焦らなくていいのです。