誰もあなたを苦しめることはできない~人生が好転する感謝の力~
感情の選択権は自分にある
もし誰かに苦しめられたと思うなら、それは自分の考え方の違いや思い込みで、そこから得られた宝物を見つけられていないだけです。
自分の「相手に苦しめられている」という眼鏡をかけたままその出来事を見ているので、苦しめられているとしか見えなくなってしまう。その苦しみとは、約束を破られた、裏切られた、愛されなくなった、捨てられた、とか・・・
例え捨てられたのだとしても、長いスパンで見た時に、捨てられたのではなく、新たな自由を与えてくれたのかもしれない。苦しめられたのではなくて、根性を鍛えてくれているのかもしれない。
それはうれしくはないし、痛いし、辛いし、苦しいけれど・・・でもそれを乗りこえられた暁には、成長があります。
それらもすべて、人生の中での予定通りの出来事。予定通りに起きて、予定通りに悲しんで、そして、もし、この言葉に何かを感じているなら、予定通りに、学んでいる最中なのです。
もし、予定通りだとしたら、甘んじて受け入れて、例えば、自分にこう呼びかけてみましょう。「さあ、○○○(自分の名前)、今回はどうやって乗り切る?」と。
そして、考えてもみたら、自分が今生きているってすごいことです。一度も死ぬことなく、これまで色んなことがあったけど生きていて、自己を啓発し、向上するために、このブログを今日も訪問して記事を読んでいるなんて、すごいことではないですか。
もし、あいつのせいで苦しんでいるとか、悲しんでいるとか、もがいているとか、大騒ぎしていたいのなら、ずっとそこに居続けることになります。
しかし、その感情を選択しているのは自分である、ということに早く気付くべきです。
感謝が人生を好転させる
どんな情報もアドバイスも、だれかの知恵ある言葉も受け取りたくないなら、残念ながら、そのままでいるしかないのでしょう。すべて他人のせいにしている人は、そうしたい、そういう状態が好き、ということ。
もし、他人の責任にせず、自分の学びだと捉えられた時、苦しめてくれた相手にさえ感謝できるようになって、そのあと、そのあとその相手にもっともっと感謝したくなります。なぜなら、苦しかった事に感謝ができた時、人生は信じられないくらい好転していくから。
すごい良いことが起きて、それにまた感謝できるのですが、その好転のきっかけを与えてくれたのが、その人物である事だってあるのです。「あの時の、あの苦しみがなかったら、今のよい状態はなかった。だからつまづきの石を置いてくれてありがとう」。そう言える日が必ず来ます。
それは、あなたが見方を変えた時に起きる奇跡・・・いや、奇跡じゃないですね、実際にそうなっているのですから。
その人は、あなたを苦しめたかったわけではなくて、自分の選択を変えただけだったり、自分のしたいことをしただけ。
たとえそれが、自分の期待を裏切るようなとんでもないことであったとしても、考えてみたら、自分が勝手に相手に期待していただけです。自分の価値観で相手が動いてくれるなんて、勝手な期待をしてはいけません。
勝手に期待をかけて、その期待が裏切られたと判断して、怒って、身体壊して、イライラと過ごしているなんてもったいないと思いませんか?さっさと早く抜け出して、元気に生きたいですよね。
感謝はするのでなくて湧き上がるもの
さて、前述では苦しいと思った事でさえ、感謝できたときに物事は好転する、ということを書きましたが、「分かっちゃいるけど本心で思えない感謝はできません」という声もあるのではないかと思います。
そう思った人は、まさに自分の心の内側の投影です。
苦しいことに直面した時、「誰かに苦しめられた!」という恨みつらみの気持ちを選択することもできますし、「自分の学びと成長と今後の教訓を得られた」と自らが納得してそう捉える事もできます。
後者の選択ができた時は、無理に感謝するのではなくて、感謝の気持ちが勝手にわき上がります。
感謝とは、感謝しようと思って「あー感謝ね。はいはい」というのは本当の感謝ではありません。なにせ感情が伴っていないので、感謝の周波数は出ていません。
ただ、心が伴っていなくても、発する言葉自体にも特有の周波数があるので、心伴わずとも言っているうちに、心がスッと楽になることもあります。それが、スマナサーラの祈りの言葉「生きとし生けるものが幸せでありますように」です。
「嫌いな人に向けて、幸せになりますようにだなんて絶対言いたくない!」と思っていながら言ったとしても、心が浄化されたかのように気持ちが楽になります。
さらに言えば、量子の世界もスピリチュアルの世界も、集合意識体も1つなので、その放った言葉たちは、自分に向けて言っていることと同じです。
悪口を言うと、それは自分に言っていることにもなりますし、誰かの失敗を願うと、自分が失敗してしまう。つまりは反対に、誰かの幸せを祈ると、自分が幸せになっていきます。
「難しい」は禁句ワード
「頭で分かっているのですが、難しいですね」と言ってしまう。それは難しいのではなくて、実は、「そうしたくない」と言う意味です。
自分は「やりたくない」つまり「感謝したくない」と思っている。本当はそういう表現のほうが、自己責任でそれを自分で選んでいるという気持ちになり、他人のせいにしないのでいいのですが、他人のせいにしているうちは、しんどいですよ。
「それは難しい」と言う言葉は、自分が「できない」をインプットしてしまうので危険な言葉です。何につけても言わないようにしたいもの。
「難しい」と言う言葉は、宇宙や自然の、単純でシンプルな法則に反した言葉で、言えば言うほど、別のことでも、あなたが何かやろうとした時に、難しいがインプットされてしまい、本当に何事も難しくなってしまいます。
宇宙も自然も潜在意識も人の行動を司る脳の仕組みも実は「難しい」のではなくて「単純」です。感謝についても、するものではなく湧き上がるもの。そうできたら、好転できるよ、ということ。できなかったら、いつまでもそこにいるだけ。
ひどいことをされた!と感じる人がその恨みを晴らすために仕返しをすることもできます。しかし、そんなバカに関わるよりも、綺麗さっぱり忘れてリセットして、自分の人生を歩んだ方がいい!と、思うこともできますね。
どっちにしてもOK!自分の好きな方を選んでOK!あなたは自分がより幸福で、生きやすい方を選択していいのです。
心から「感謝だな」と思うものは何ですか?
そして、誰だって恨みつらみ、悔しさにフォーカスして生きている人は幸せじゃないというのは想像できるでしょう。しかし、そこから抜け出せないのは、実はその状態が好きだからなのです。
物事の良し悪しなんて、自分で作り上げることができます。自由に自分が好きな方を選択してみてください。
何をチョイスしても、学びはありますし、このブログは、ただのヒントでしかなくて、しかも、それが唯一たった1つの方法論ではなくて、色んな方法がある中のたった1つですよ、ということ。
最後に質問します。無理に感謝しよう!とは言いませんが、今、心から「感謝だなぁ」と感じることがあるとしたら、それは何ですか?
ゆっくり考えてみてくださいね。