ニュートラル思考~全部マルだから~
ニュートラル思考について
最近、ニュートラル思考について書いていないなと思い、本日の記事で取り上げたいと思います。
コーチングでも「ニュートラル」は良く使われるワード・スキルですが、 意味は「中立、中間」のことです。ニュートラルな視点、ニュートラル思考、ニュートラルな在り方、ニュートラルな話し方、などなど。
これだけでも色々ありますが、上記ができるようになると、ラクに生きられますし、人としての成長にも寄与します。
一応、私自身の中には、信念や価値観がありはしますが、他人に関しての価値感信念はもちろん多種多様で、何かの答えは、五万とある、とも思っています。
そこに良し悪しの判断はないのが私なりのニュートラル。もちろん、好き嫌いなどの好みはあったとしても、です。
他人様が「私は、Aだと思います」と言えば、私は「そうか、Aですね!了解!」と言いますし、他人様が「Bです!絶対にBです!」といえば「そうだね、Bだね。Bやってみる?」です。ビジネスはあまりゆずりませんが、ゆずれるところは結構何でも譲ります。
そして、人生捨ててるわけではないのですが、正直、どうでもいいのです。
「どうでもいい」と言うと、非常に冷たく聞こえるかもしれませんが、興味がない、と言う意味ではなくて、人がどの決定をしていても、どんな行動をしていても、「どう決定してもいい」という「どうでもいい」。
全部、あなたの決定はマル〇だと思っているのです。
すべて、ただの経験
マル◯って、正しいという意味ではなく、正しいも間違いもありませんので、全部「経験」したいんだよね?ということで、そのことが良い結果でも、悪い結果でも、すべて後に良い経験になるからマル〇だと思っています。
そこにジャッジはないのと、それと、自分がその立場でない限り、真実はわかりませんし、わかったところで、結局他人事。と思っています。
冷たい言い方に聞こえるかもしれませんが、あなたが選んだことは、全部信頼していますし、必ずやすべてプラスになる、と信じているからこそのマル◯なのです。
今の生活、という視点で物事を判断しません。人生という80年、90年というタイムラインで見る、もしくは、そのタイムラインが魂レベルで言えば、何本も無数にあって、その中の経験したかったことが、今生のタイムライン上にある、というイメージです。
「ああ、みんな経験しているんだな」という高い視点で物事を見ると、裏切りも、許しも、間違いも、正しいもなくて、一言でまとめると、それらは「ただの経験」なだけ。
こんなことを書くと、感情的になったりしないのか?とか思われると思うのですが、感情的になって、「腹立つぅーーー!」とか暴言を一人で吐きまくることもありますが、それも私にとってはマル◯なのです。
感情的になる=バツ✕ではない、ということ。全部マル◯。ですから、私には、他人に関して「許す」という概念がありません。それは許さない、という意味ではないです。
「他の人の過ちを許しましょう」と言われていますが、たとえ、私が害を被ったとしても、私は「許す」立場にはありません。ただ、そこに私の感情があるのみ。
怒りや悲しみや苦しみがあるだけで、それを許すとか許さないとかありません。私をこんなに苦しい目に合わせやがって!とも思いません。
「苦しい」という感情を選択したのは自分だからです。
ですから、人をずっと恨み続けることも、許す許さないの関係にはありません。動物のようにただそこに感情があるだけなのです。
あぁ、ニュートラルって本当にラクですよ。
どう在ってもいい
正直、なんでもありです。感情もなんでもありです。イライラする気持ちも、ザワザワする気持ちも、憎たらしいと思う気持ちも、妬む気持ちも、嫉妬も。
何かの物事に、いいとか悪いとかで線引きしてしまうと、苦しくなるのは自分です。何でもあり、何でもいい、どうでもいい、どうあってもいい、と。
私の言う「どうでもいい」は「あなたはどう在ってもいい」の意味なのです。
どうなってもいい、じゃないですよ。どう在ってもいい、ということ。どう在ってもあなたはあなたで、そこに良し悪しの判断は何もないです。
正義感はいいとされていますが、それがあまりにも強すぎると、線引きしてしまいます。どちらかが正しくて、どちらかが間違っていると。そこで隔たりができてしまい、それが戦いになってしまいます。
かといって、それを自らの中に持っていて、ダメということでもありません。自分はそれに従って生きていけばいい。ただし、人に強要しないことです。
時に人間らしく、時にニュートラルに
いかがでしたでしょうか。他人をコントロールしようとすると苦しさが出ます。イライラします。ですから、ニュートラル思考が最もラクなのです。
しかし、ここまで書いて思ったのは、すべて完璧にニュートラルで生きていたら、人間らしくないな、と。それを言ったらおしまいよ!的なことですね。笑
しかし、私達は、聖人君子や神レベルになることが目的ではなく、自分の資質を大切にしつつも、何かあったときに、今日の記事を思い出して「そんな見方もあったな、やってみようっと」ぐらいでもいいのかもしれません。
だって、孔子ですら「中庸」という概念は、最高の徳と説いたわけですから、その最高の徳がそんな簡単にもできるわけもなく、私も、人間らしく、キーっとなったりワ―っとなったり、キーってなったり・・・
それもまた、おもしろいな、と思うのです。