心の眼を養う
見るのは目でなく「心」
物が豊かになった分、心が貧しくなった・・・とよく言われる時代になっています。物質や金銭的豊かさと真の幸福とには、多少の影響はありますが、それが真髄ではないことは、気付いていらっしゃる人も多いことでしょう。
何かを判断するときに、たいていの場合、その人の外見と数字で判断しています。それは浅はかな判断方法なのですが、しかし、しょうがないところ。人は最初は目につくものから無意識に判断しているのですから。
ここで、養いたいのは心眼。心で見る、見えない真実を見抜く眼、です。
どうやって心で見たらいいのかわからない、という人もいますが、ファーストステップは、目に見えるもので判断しないこと。
例えば人であれば、その人についているオプション、住まいとか、暮らしぶりとか、ブランド物とか、車とか、洋服とか、付き合っている人とか、肩書きとか、年収・年商だとか・・・
「オプションがすべてなかったとしたら、その人は人格的にどうなのだろう?」という、心の眼で見るようにする。
人だけではなく、何か物事、アクシデント、試練、そういう思いがけないことに関しても、目に見える情報だけでいっぱいいっぱいになってしまうことがあります。それもまた、心の眼で見る意識をしましょう。
視点を変え多角的にみる
そして、眼に見えないものを見るトレーニングに慣れてきたら、今度は、情報に左右されない、という意識を持つことです。
一旦、その情報や、その人が言っていることを疑ってみるのも一つの手です。そして、その情報を立体的に見てみるのです。
表面的に情報を捉えると、一方的な事実しか見えません。しかし、上から見たり、下から見たり、斜めから見てみたり、はたまた、非常に高い視点から見つめてみたり、物事を多角的に見ることです。
「誰かが非難されていても、表に出ていない情報があるとしたら、どんなことが考えられるだろうか?」と、視点を変えて情報を捉えてみてもいいと思います。
そして、何よりも、自分の心を養う(養うとは霊的な成長や進歩したいとの願いで学ぶ)、そうしておけば、その心があなたにとって必要なことを教えてくれます。
目の前の人をどれだけ思えるか?
私、自分に全く関係のない人がどういう人かを見抜く力は長けていると自負していますが、自分に関係する人に関しては、全く人を見る目がありません・・・
ですが、対人関係において、一つだけ心がけている点があります。それは、誰に対しても、まず相手が私に何もない限り、その相手が興味の対象になります。
目の前にいる人が誰であろうが、対面している最中は、そのお相手を、本当に大事な友人である、大好きな人だ、という感情を持つようにしています。
ところが、私がそう思っていても、相手が私を見て、同じ感情を持ってくださるとは限りません。外見で判断され、「あ、この人ハデそう」とか「なんかニコニコしていて胡散臭い」と思う人もいらっしゃいます。
相手の感情は、表情や態度を通して伝わります。まるで電波のように。これが、波動なのでしょう。
人との良いコミュニケーションって、上手に会話をすることではなくて、その瞬間、相手をどれだけ好きになれるか?が大きいような気がします。
これまでの人生経験を経て、「去る人追わず、来るものは選ぶ」の意識を養ったものの、対面している時は、大切な人だと本気で思い向き合っていることは変わりません、その後、人間関係において痛い目に遭う・・・
今でもたまにあります。きっと私の生涯の課題ですね。
心の眼=感覚を養うこと
人も、物事も、アクシデントも、試練も、目で見るというより、心の眼で見るようにすると、目の前にいる人や、起きていることの良いところがたくさん見えてくるようになります。
心の眼は、通り見えるというよりも、感性・感覚のセンサーが働くと言った方が近いかな。
好きな人には、興味もあるし、相手が話していることを受け入れ、「うん、うん」と、知らず知らずのうちに、アクティブリスニング(積極的傾聴)も、しているものですから。何の技術もいらないでしょう。
そこにさらに、心の眼で見ることをトレーニングしていけば、自分と合わないような人でも、このセンサーが働くと、その人のいいところや素敵なところを発見できるものです。
こう考えて見ますと、ご自身の周りの人々から、自分の中の本質が見えてきたりするという、思わぬ副産物が生まれる可能性もあります。
見えないものの中にある真実を掴もう
情報過多とも言われるこの時代。しかし、この世で見えるものはごく一部であり、しかも、見えるものは虚偽のものも多く、見えないものこそ真実で、見えないものこそ大切なもの。
心の眼で見るトレーニングを重ね、敏感なセンサーを養っていく。これからも続けていきたいですね。