人のためにの前にまずは「自分のため」
喜ばせる人の優先順位
人様の喜ぶ顔を見ると本当に幸せな気分になるものです。そして、関わる人々の喜ぶ顔は、何ものにも代えがたい起動力になります。
家族の喜ぶ顔、子供の喜ぶ顔、恋人の喜ぶ顔、友人の喜ぶ顔、従業員の喜ぶ顔・・・何かをする、というのは本当に真の喜びや幸せを得るのに、とてもいい方法です。
ただし、優先順位があります。それは、自分が満たされていて、そして自分の喜びは常にあり、溢れた水からその他者に喜びのために何かをするということ。
それができたら次は、愛する身近な人々、家族、恋人、または、友人、そして私の場合は、ビジネスで関わる人々、と少しずつその与える範囲も広がっていきます。
家族を省みることがないのに、他人様に何かをセッセとしてあげる場合、優先順位がちょっと違うような気がします。
というのは、家族はなかなかあなたに感謝の言葉を言わないかもしれませんが(言う人もいるけど)、他人は嘘であっても何かされたら、「わぁ!嬉しい」「ありがとう」「すごい!」とあなたに賞賛を与えますから、ついつい気持ちの良い方に与える行為をし続けてしまう危険性があります。
なぜ、最初に自分なのか?なぜ、自分を先に満たすのか?それは、自分の承認欲求や重要感を他人の喜ぶ顔で満たしたり、自分が満たされていない状態で人様の喜びで喜びを得ようとすると、間違った依存関係が生まれます。
見返りで自分を満たすのは危険
前述したことは一見、何も悪いことではないように思えますが一種の麻薬のようなもので、危険が潜んでいます。
相手が喜ばないと、何かをしてあげる気にならない、自分が承認されないと、または自分がした行為で満たされないと、その人にはもう、何もしようとは思わないからです。
つまり、言葉を変えて言えば、他人様を喜ばせる意味は、見返りを期待しているからなのです。
喜ぶ顔、という見返り。お礼を言われる見返り。「◯◯さん、すごいですね」と言われる見返り。承認、自己の重要感が満たされる見返り。
キリスト教の教えでは、本来の「与える」意味というのは、見返りのない与える精神です。聖書のマタイの聖句の中に、こんな言葉があります。引用すると
「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなた方の父から報いを受けることがないであろう」
仏教の用語で言えば、何か施しをする際は、陰徳で。つまり何かした時は、誰にも言わず、誰からも賞賛を受けずにこっそりと、という意味。
自分が何かをしてあげたことを誰かに知らせた時に、その賞賛を人々から受けて、それを与えた人はその人の賞賛で喜ぶでしょうが、もうその時には、神からの報いはないわけです。もう、人々から賞賛をもらったわけですから。
自分が満たされると執着がなくなる
話を元に戻しますが、自分が満たされていますと、おのずと陰徳になっていきます。自分で自分を満たせているので、他者から満たしてもらう必要がなくなります。それが何事もうまくいくという執着がない状態です。
そして、誰かに何かをやってあげたとしても、別にお礼はいらないし、喜んでもらわなくても、自分が与えた時点で喜べるので、それでももし、相手が喜んでくださったときには、それは過分の喜び、おまけのようなものなのです。
あなたがまず幸せですと、伝染して、あなたの関わる人が幸せになります。それはお金も関係なく、ギフトも関係なく、ただただ幸せになります。
不幸せ、欠乏感満載状態で他の人を幸せにしようとしていると、その見返りがないとそれが続かなくなってしまいます。
満たされた状態ですと、たとえ、相手は喜ばなくても、お礼を言われなくても、それをただただ「したい!」という心からの気持ちで何かをし続けるのは、(1回2回するようなことではなくてね)自分が満たされていないと、できないことです。
順番を間違えると、麻薬のような依存になり、相手がもし、喜ばないと不平不満の理由にもなります。なので、最初に自分を満たしたいものです。
人のための前に自分のため
いかがでしたでしょうか。誰かの機嫌を取る前に自分の機嫌を取り、自分がご機嫌で元気でいましょう。
そのために、知性を磨きましょう。映画をたくさん見て、本をたくさん読んで、好きなことに没頭する時間をみつけて、自分を喜ばせること、感動することをたくさんしましょう。
自分を満たし、自分を成長させ、自分を喜ばせる・・・そんなことをやっていますと、不思議と周りの人々にも与えることになっている、という一石二鳥な状態をもたらしたりします。
あなたから溢れんばかりの幸せや喜びがこぼれ落ちて、その中から他人へおすそ分けしていけますように。