辛い経験をするのはなぜ?~心が軽くなる思考法~

辛い経験をするのはなぜ?~心が軽くなる思考法~

辛い経験をするのは・・・

辛く苦しい経験・・・嫌ですよね。試練に遭うたびに、しんどさを経験するたびに、「もう、勘弁してほしい」って毎回思うものです。

昔の私だったら、ドン底が長くて、「何で自分だけこんなにひどい目に遭うのだろう」と天に向かって、相手に向かって(影で)文句を言い放っていた時代もありました。

しかし、今はどう考えても、どう転んでも、どんなに腹が立つ相手でも、「アホだな」と思ってしまうような相手でも、「私はこの経験したかったのかぁ」と思えるようになりました。

そして、俯瞰して自分に降り掛かっている試練や辛い経験を見た時に、「なんとまぁ、次から次へとおもしろいストーリーだわ」と、我ながら思えてきたりもしてね。

もちろん、私は辛い時は、口の堅い信頼の置ける友(ここが大事)に打ち明けて、さっさと抜ける方なのですが、自分の実情を相手に話している時に、ふとこう思うことがあります。

それはまるで、自分がおもしろい映画や本を読んで、その時に感じた感動や感情を相手に伝えているかのような感覚。

そして、友にも「なんか、これって端(はた)から聞いているとおもしろいよね?」と自分の試練や苦しい事が本当におもしろいストーリーのような気がしてくるのです。

もちろん友も「うん、なかなかおもしろい!さあ、ワタナベ薫、このあとどうなる!?なんて、めっちゃ興味深い!」となるわけです。

「これを経験してみたかったのか」

私にはあちらの世界(あの世)の記憶はありませんが、それはそれはいい所だって言うじゃありませんか。つらい事もないと言うし、何でも叶うそうで。

思考が瞬時に現実化するようなね、問題も試練もない事でしょう。しかし、それじゃあ成長しないという事で、私たちはこの世に、成長するために生まれてきたのでしょう。

その成長は、自分で勝手に意味付けするのだけれど、結局、何でも叶うあちらの世界は、おもしろくない、わざわざ自らゲームを攻略するかのような、山あり谷ありを設定し、それを経験したくて、私たちはここに来ている、・・・と。

なので、思いも寄らないような試練が目の前に現れた時に、まずはこう言ってみてください。「私の魂はこれを経験してみたかったのか」

どんなに悲しみの渦中に居ても、その悲しみが教訓となり、次なる経験に活かされる。だとしたら、そんなに大きな問題ではないでしょう。ただ、自分がどう思うかだけ。

問題は実は問題ではなくて、こちらが問題だと思ってみた時に、問題になります。観察した事が現象化するわけで。問題、と見なければ問題ではないのです。

これからは、「試練だ」「問題だ」「辛い」と感じたら、そう思わず、「経験だ」と思ってみましょう。

学校の道徳の時間でも教えてくれない、親も教えてくれない、偉人が教えてくれるわけでもない、完全オーダーメイド、リアルな課題付きの「経験」と「学び」。

これをクリアして、また今生の歩みを終えた時に、「学びを終了して参りました」と神様か、ご先祖様か、先に逝かれた家族か恋人かはわかりませんが、誰かにご報告を携えて、もとに居た場所に戻るのでしょう。

そう考えてみたら、なんか心が軽くなりませんか?喜怒哀楽すべて、私たちはそれを経験したくて、やってみたくてやっている。チョイスしているのです。

したくないことは起こらないから大丈夫

逆を言えば、あなたが経験したくないことは、目の前には起きません。全部目の前に起きることは、自分の魂が経験したかったことだから大丈夫。

「じゃあ、○○だけは避けたいから、経験したくない(><)」と思ったならば、逆に経験することでしょう。経験したくない、と思えるという記憶があるくらいだから、それって経験したいことなのです。経験しなくていいことは、頭にも出てこないでしょうから。

例えば、相思相愛で結婚した夫婦。この愛は一生涯続くものだと思っています。旦那さんの浮気なんて、誰でも経験したくはないでしょう。それでも、経験してしまった。まるで地獄・・・

しかし、過去をよくよく振り返ってみた時に、あなたは旦那が浮気する前から、旦那の浮気をよぎっていたはず。「浮気なんて許せない」「私は浮気する人はダメなんです」「うちの旦那は私に一途で浮気なんてしません」

もしかしたら、以前に、「もし、うちの旦那が浮気したら私、どうなるかな?」と、考えた事があるはず。そんな風に、それらを自分の顕在意識では避けたい事、と思っているのに一瞬でも考えてしまう。魂がそれを経験したかったのかもしれない・・・

と、いう具合に解釈すると少し心が楽になるかもです。そして、試練は見方によってはとてつもない成長があります。「経験したかったのだ」に加えて「成長の時だ!」と捉えてみる。

そう心から思えた時に、試練を与えた憎い人、という視点がなくなり「私を成長させてくれるために経験させてくれたありがたい存在」に変わるのです。

不思議ですが、「こいつ、本気で腹が立つ」と思えた相手にさえ感謝の気持ちが湧き出てくると、本当に涙が出てきます。その役割を背負って同じ時代に生まれご縁があり、こうして、自分の成長のために嫌なことしてくれたありがたい存在になっていくのです。

感謝の気持ちが出てきたら、あとは、何が身に起きようとも、ニュートラルに構え、そしてまた「私の魂はこれを経験してみたかったのか」と思えるようになります。

辛かったことが今の私を創っている

私事ではありますが、今思えば「辛かったことが執筆に生きている」としか思えません。

もし私が、お家柄もよくて、お金持ちで、超一流の大学を出て、お父様から譲り受けた会社の代表となり、ブランド物にも囲まれて、ビジネスもうまくいっている、素敵なイケメン旦那に可愛い子供が居て、容姿も完璧でおっぱいも大きくて・・・笑

こんな私が、今と同じようなブログを書いても響かないでしょう?お金がなかった時も経験して、頭も悪くて、外見だって特別いいわけじゃない。試練も人並みにあり、今でもそれと向き合いながら乗り越えて生きています。

この状態だからこそ、情報発信は生きている、と言えるのかもしれません。だから起きている試練はすべて、自分の糧になっている、ありがたい出来事でもあるのです。

今日の記事は、ちょっと空想世界、精神世界っぽいですが、ただの勝手な意味付けでも結構です。

いずれにしても、試練に対して前向きな捉え方をし、いつまでもグジグジ悩んだり、落ち込んだりせず、「次!!」とまた歩み出せるための、参考にしてみてくださいね。

この記事を書いた人

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